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千代の富士貢さんの葬儀~横綱のお葬式~

第58代横綱として圧倒的な強さを誇り、「小さな大横綱」「ウルフ」の愛称で親しまれた千代の富士関。
細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、豪快でスピーディな取り口から、老若男女問わずとても人気がありました。
今回は、千代の富士貢さんの葬儀についてご紹介いたします。

【目次】

1. 千代の富士貢さんはどんな人?
2. 千代の富士貢さんの死因と葬儀内容とは
3. 千代の富士貢さんの葬儀のまとめ

1. 千代の富士貢さんはどんな人?

千代の富士貢さんの葬儀~横綱のお葬式~
千代の富士貢さんは、1955年6月1日、北海道松前郡福島町の両氏の家庭に生まれます。本名は、秋元貢。
幼いころより漁の手伝いをしていたため自然と足腰が鍛えられ、中学時代には運動神経が抜群だったと言います。
特に、陸上競技では、走り幅跳びや三段跳びの地方大会で優勝するほどの腕前。オリンピックも夢ではないと言われていたそう。
運動能力の高さが相撲関係者の目に留まり、中学生の頃に同郷の九重親方(元横綱・千代の山)にスカウトされますが、相撲にまったく関心がなかった秋元少年は、一度はそのスカウトを断っています。
ところが諦めきれない九重親方の「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」という言葉に惹かれ、家族の反対を押し切って九重部屋への入門を決めたそうです。

1970年9月場所、15歳で本名のまま初土俵を踏むと、翌年の1971年1月場所で、「千代の冨士」と名付けられ、その後「千代の富士」に改名。
愛称の「ウルフ」とは、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重親方が「狼みたいだな」と言ったことから名付けられたと言います。
1974年には19歳5カ月で十両に昇進。さらに翌年の75年9月場所ではスピード出世で新入幕を果たしました。
ところが、度重なる肩の脱臼などのけがに悩まされ、幕内から転落。成績が安定せずに十両や幕下を行ったり来たりの繰り返しでした。

幕内への定着も見えてきた1979年3月場所で右肩を脱臼して以降、当時お世話になっていた病院長の助言により筋力トレーニングを取り入れ、腕立て伏せを毎日500回以上続けるなどの肉体改造に乗り出しました。
その努力の甲斐があって、79年には再々入幕を果たしました。

幕内に返り咲いて間もない1980年には、3場所連続で技能賞を受けるなど昇進を続け、関脇だった1981年1月場所で幕内初優勝します。同年3月場所で大関に。さらに7月場所の千秋楽で当時横綱だった北の湖関を破って2回目の優勝を遂げると、念願の横綱へ昇進を果たしました。
同一年中に、関脇・大関・横綱へと一気に昇進し、すべての地位で優勝するという史上初の快挙を成し遂げた年でもありました。
往年の相撲ファンのみならず、若い女性から子供にまで知名度が広がり、一種のアイドル的な人気を博したことから、後に「ウルフフィーバー」に沸いた一年だと言われました。

実は、千代の富士さんの本格的な黄金時代は30代に入ってからだと言われています。
1986年は5場所連続優勝。1988年の休場明けの5月場所から4場所連続で優勝して53連勝を達成しました。
同年11月場所の千秋楽で惜しくも敗れて連勝はストップしましたが、双葉山の69連勝には届かなかったものの、2010年に白鵬に破られるまで20年以上更新されなかった戦後最高の記録でした。

ところが1989年6月、突如として悲しい出来事が起こります。
生後4か月だった三女の愛ちゃんが、SIDS(乳幼児突然死症候群)によって他界してしまったのです。
精神的なショックは大きく、師匠の九重親方ですら「もう相撲は取れないのではないか」と思うほど憔悴しきっていたと言います。
しかし、その直後の7月場所には、首に数珠を掛けて場所入りし、見事優勝を果たしたのでした。千代の富士さんはこの時、「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメントを残しています。
そして、続く9月場所では当時の通算勝ち星の新記録を打ち出し、9月29日には相撲界初となる「国民栄誉賞」を受賞しています。
さらに、翌1990年の3月場所では前人未到だった通算1000勝を達成。同年11月場所では31回目の優勝を果たし、元横綱・大鵬関の優勝記録まであと1勝というところまで迫りますが、惜しくもこれが最後の優勝となりました。
1991年5月場所の初日に、当時18歳だった貴花田関(のちの横綱・貴乃花)に敗れると、3日目の取組後、現役引退を表明しました。
会見の冒頭で「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました」と述べた言葉は、多くの人の胸に残りました。
通算1045勝、横綱在位は59場所。双葉山関や大鵬関、北の湖関などと並ぶ昭和の大横綱の1人として名を馳せました。

引退後は、九重部屋付きの親方として後輩の指導にあたり、1992年に九重部屋を継承しました。
そこで、大関千代大海(現・九重親方)などの多くの幕内力士を育て上げました。
現役にはいつも厳しい口調で接していましたが、弟子との交換日記を欠かさず、赤ペンでアドバイスを送ったり、取組後には絵文字入りのメールを送るなど、優しい一面もありました。
怪我をすると将来を優先し、無理をさせずに休場させる方針だったと言います。

現役引退から四半世紀が過ぎようとする2015年に千代の富士さんは還暦を迎え、誕生日前日の5月31日には両国国技館にて、北の湖関以来2年ぶり10人目となる還暦土俵入りを行いました。
露払いを日馬富士、太刀持ちには白鵬の2人の現役横綱が務め、現役時代と同じ雲龍型の土俵入りを披露すると、気迫あふれる四股に観客も魅了されました。

2. 千代の富士貢さんの死因と葬儀内容とは

千代の富士貢さんの葬儀~横綱のお葬式~
還暦を祝う土俵入りの直後、年1回の健康診断にて膵臓がんが発見されると、すぐに手術を受け、1ヶ月ほどで退院しました。術後の経過は良好で、9月には職務復帰しています。
しかし、2016年に入ってから、がんが再発します。すでに胃や肺などに転移しており、鹿児島県にある治療施設で放射線治療を受けながら親方としての仕事を続けていました。
亡くなる直前の千代の富士さんは、「弱った姿は見せたくないから」とお見舞いをお断りし、
「娘の誕生日までは、踏ん張りたい」と、最後の気力を振り絞っていたと言います。
そして、長女・優さんの誕生日の7月19日、次女・梢さんの誕生日の7月27日が過ぎた2016年7月31日、とうとう帰らぬ人となりました。
最期の様子について、次女の梢さんは「最期は苦しむ事なく、家族全員に看取られて、息を引き取りました」とツイッターにて報告しています。享年61歳でした。

8月6日に通夜、8月7日に葬儀・告別式が、東京都墨田区にある九重部屋で営まれ、弟弟子にあたる八角理事長や、読売ジャイアンツの原辰徳監督など、約1000人が参列しました。
交友のあった阪神タイガース二軍の掛布雅之監督や、国民栄誉賞の授与を決めた当時の内閣総理大臣・海部俊樹氏らからの弔電が寄せられました。
棺の中には、生前に好きだったカトレアなどの花が飾られていました。出棺の際には、部屋の周りに集まった人々から「ありがとう、千代の富士」「ウルフ、日本一」の声が飛び交いました。
棺を乗せた霊柩車は火葬場に向かう途中、現役時代を過ごした両国国技館に立ち寄りました。国技館の正面に数秒間停車すると、沿道に集まった人から「ありがとう」の声が上がりました。

そして同年の10月1日、両国国技館にて、「第58代横綱千代の富士 お別れ会」が開かれました。
館内には直前の秋場所で使われた土俵が残り、その近くに設けられた祭壇には遺影や旭日中綬章などが置かれ、大型スクリーンでは現役時代の映像が流れました。
歌手の松山千春さん、タレントの近藤真彦さんなど、かつてから親交のあった関係者約1500名と、一般の参列者約3500人による献花が行われ、故人を偲びました。
「お前のご冥福は祈らないよ。もう1回、立ち上がってくれ。もう1回、あの勇姿を見せてくれよ」と弔辞を読んだ松山千春は、故人の半生を描いたドラマ「千代の富士物語」の主題歌で自身の楽曲「燃える涙」を熱唱。最後に「千代の富士~!」と絶叫して追悼しました。

3. 千代の富士貢さんの葬儀のまとめ

現役時代、数々の偉業を成し遂げた千代の富士貢さん。
千代の富士さんが、相撲ファンを始めとする多くの方々に愛され、慕われていたことは、その葬儀の模様からも窺えます。
また、お子さんが生まれた際の優勝会見では、必ず子供さんと一緒に記念写真を撮っていたという、子煩悩で家族思いのお父さんでもありました。
千代の富士さんの早すぎる別れは大変惜しまれますが、多くの功績とその人柄は、これからも人々の記憶に残り続けることでしょう。

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