宗教儀式を行わない葬儀ならお坊さんのいないお葬式「コラム」ページ

コラム

著名人のお葬式

手塚治虫さんのお葬式~漫画家のお葬式~

手塚治虫(てづか・おさむ、本名は治・おさむ)さんといえば、「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「ブラックジャック」「火の鳥」「ブッダ」
「三つ目が通る」「アドルフに告ぐ」など数々の漫画を描き、漫画の新しい表現を作ったストーリ漫画家の第一人者として日本のマンガ文化やアニメ文化に大きな功績を残しました。
今回は漫画の神様、手塚治虫さんの葬儀をご紹介します。

【目次】
1.手塚治虫さんはどんな人?
2.手塚治虫さんの死因
3.手塚治虫さんの葬儀
4.手塚治虫さんの葬儀のまとめ

手塚治虫さんはどんな人?

生い立ち

幼少期

手塚治虫さんは昭和3年(1928年)11月3日に、兵庫県宝塚市出身(現在の大阪府豊中市)に父・手塚粲と母・文子の長男として誕生しました。
3人兄弟の長男であり、2つ下の弟(浩さん)と4つ下の妹(美奈子さん)がいます。
名前の由来は明治節(明治天皇の誕生日)の11月3日に誕生したことから治の字をいただき、治と名づけられました。

裕福な家庭で育ち、不自由なく漫画や海外のディズニーアニメやチャップリンの喜劇などに触れる機会が多い幼少期を過ごし、5歳の時には宝塚劇場や宝塚ルナパークがある兵庫県川辺郡小浜村川面の邸宅(現在の宝塚市)に引っ越しをしました。
宝塚では父に連れられ、宝塚ホテルのレストランで食事をすることや母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらう機会も多く、また昭和初期ではあまり見られない近代都市で人工的な宝塚の都市風景は手塚治虫さんの感性を養い手塚作品の世界観に大きな影響が与えられています。

手塚治虫さんの隣家が宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女さんが住んでいたこともあり、初恋の女性を見るために宝塚少大劇場に通ったことがあるそうです。

小学生

手塚治虫さんは池田師範附属小学校に入学しました。
背も小さくて運動オンチしかも天然パーマ、しかも母の影響で標準語を話す浮いた存在の手塚治虫さんは小学校2年の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になっていたといいます。
しかし、そんな手塚治虫さんを救ったのは「漫画」。
小学3年生の時、手塚治虫さんの最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させました。また小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成させています。
この漫画は友達だけではなく、教師の間でも話題になるほどでした。
漫画のおかげで手塚治虫さんは人気者になったそうです。

また手塚治虫さんはこの頃、昆虫にも興味を持つようになり、昆虫採集を行ったり、写真と見間違うほどのイラストがはいった昆虫図鑑を描いています。ペンネームの「手塚治虫」は平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』で知った甲虫のオサムシを知り、この頃から使用するようになりました。
またこのペンネームは1950年頃までは治虫(おさむし)と読ませていたそうです。

青年期

手塚治虫さんは1941年に大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学しました。
1941年は太平洋戦争に突入した年で世の中は軍事色となっていたため、
手塚治虫さんはこれまでのように漫画を描いていると、学校教練の教官に見つかり殴られることもありました。
このころは目立たないように漫画同好会の会誌の漫画を描いたり、原色甲蟲圖譜というイラストを中心にした甲虫図鑑を自作するなどの活動を行っていました。
また強制修練所に入れられたことや、軍需工場に駆り出されたころもあり、漫画ばかり描いてられる環境ではなかったが、時間を見つけては執筆を行っていました。
中学校を4年で卒業(この頃はすると中学校は5年生まであったが、戦時中のため修業年限が短縮され4年で卒業となる。)すると、旧制浪速高等学校(現大阪大学)を受験をするが、不合格となり、その年の秋に大阪大学附属医学専門部の試験を受け、入学をし、卒業しました。
またこの頃、大阪大空襲に遭遇し、頭上に焼夷弾が投下され危うく被弾しかけるという経験もしています。

漫画家「手塚治虫」の誕生

手塚治虫
終戦後、漫画家になると決意した戦時中に書き溜めた漫画を毎日新聞学芸部に送ります。
この時送った漫画は採用されませんでしたが、その後、知人の紹介で少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野さんと出会い、四コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が始まり漫画家としてデビューしました。
この時の手塚治虫さんは17歳で、まだ大阪大学附属医学専門部に在籍中でした。
その後、長編マンガ「新宝島」の刊行や「ジャングル大帝」を漫画少年に連載スタートするなど、漫画家として活動しながらも1年浪人し、23歳の時に大阪大学附属医学専門部を卒業し、連載を続けながらも医師国家試験に合格しました。
この頃、医者になるか漫画家になるかと進路を迷った時期がありましたが、集中すると周りが見えなくなることや、カルテに患者の似顔絵を描いてしまうこともあり教授から漫画家になったほうがいいと忠告されたことや、母からの後押しもあり、漫画家へと進みます。
また手塚治虫さんは医学博士の学位もとられており、33歳の時に異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)を行っています。

手塚治虫さんのここがすごい

コマ割りの変えた!

いまでこそ漫画では大小異なるコマを横から読むのがあたりまえでしたが、
昔は4コマ漫画のような上から下に読むコマしか存在していませんでした。
それを変えたのが手塚治虫さんです。
漫画にストーリ性ができ、表現がより自由にダイナミックにできるようになりました。
この革命によりストーリー漫画の開祖と言われています。

アシスタント制の導入

これまで漫画は1人で書くものでしたが、手塚治虫さんはアシスタント雇うことで、背景やベタなどの作業をアシスタントに任すことで大量の漫画を量産できるようになりました。
この革命により週刊少年サンデーや週刊少年マガジンなどの週刊誌ができました。
アシスタント用語の「ベタ」も手塚治虫さんが作ったこ言葉です。

日本初のアニメ

手塚治虫
手塚治虫さんは日本初の1話30分の連続アニメ「鉄腕アトム」を作りました。
連続アニメは莫大な制作費が必要で連続アニメは不可能といわれていましたが、手塚治虫さんなんと私財のすべてをアニメ制作に注ぎました。
鉄腕アトムの大ヒットによりスポンサーがつくようになったことで、アニメの制作が可能となっていき、アニメ業界が進化していきます。
その後、日本初のフルカラーアニメの週間放送も「ジャングル大帝」でやり遂げます。

驚異の週間連載7本

週間連載を7本を抱える漫画家は今も昔も手塚治虫さん以外は存在しません。
睡眠時間は一日で多くても3~4時間で常に漫画を描き続けていました。
手塚治虫さんは生涯で15万枚以上、漫画を描かれています。
これは一日に6枚の漫画を描き続けても68年かかる計算になります。
亡くなる寸前まで漫画を描いていたことも有名なエピソードです。

多岐にわたるジャンル

手塚治虫さんといえば、アニメ化がされた「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」のイメージ強いですが、あらゆるジャンルの漫画を描かれています。
鉄腕アトムにより、未来やロボットといった「SF」というジャンルを確立したことやストーリー漫画を多く手掛け、「リボンの騎士」で日本初のストーリーを持たせた少女漫画を描いています。
また医者としての知識を活かした医療系漫画の「ブラック・ジャック」や「MW」という作品ではゲイ同士がプレイを行い、しかも殺し合いを行う衝撃作も存在します。
「奇子」、「きりひと讃歌」、「鳥人大系」、「人間ども集まれ」、「人間昆虫記」などの作品はトラウマものなので、読む際は注意が必要です。

手塚治虫さんが葬儀の受付をした話

手塚治虫
手塚治虫さんの奥様が初めて泣いた姿をみたのは学童社の創業者 加藤謙一さんが亡くなったときでした。
手塚治虫さんと加藤謙一さんが出会ったのは、漫画少年を発行する学童社に手塚治虫さんが漫画を持ち込んだ時。

この時の手塚治虫さんは「ジャングル大帝」の原稿を加藤謙一さんに見せ、連載がきまりました。
それから手塚治虫さんと加藤謙一さんの付き合いがはじまり、お父さんのように慕っていたようです。
またトキワ荘に住んだきっかけも加藤謙一さんからの紹介でした。

加藤謙一さんは1974年に亡くなります。
訃報を聞いた手塚治虫さんは泣き崩れました。
この時、奥様が初めて手塚治虫さんが泣いている姿をみました。
このエピソードからも手塚治虫さんがどれだけ慕っていたのがわかります。

加藤謙一さんの葬儀では手塚治虫さんは受付を担当したのです。
当時の手塚治虫さんは41歳で数々の漫画がアニメで成功をおさめた天才漫画家として有名な方でした。

お葬式が始まってからも受付から動かず、ずっと立っていたそうです。

手塚治虫さんの死因

手塚治虫さんは胃癌により、入院先の半蔵門病院(東京都千代田区)にて1989年(平成元年)2月9日午前10時50分に永眠されました。
60歳という死は、日本中に大きな衝撃を与えました。

死因となったのはスキルス胃癌。
1988年3月に胃を壊し、手術を受けてからは、周囲には気づかれないように元気にふるまっていましたが、
これまでのように漫画を描き続けることができず、時折休憩をはさむようになり、体もどんどん痩せ細っていきました。
その後、上海市でのアニメーションフェスティバルに参加し、帰国後すぐに入院し、医師によりスキルス胃癌と診断されましたが、手塚治虫さんには病名は伏せられたままでした。
入院中も3本もの連載を抱えており、入院中にも関わらず連載を続けました。
昏睡状態に陥っても、昏睡が覚めると鉛筆を握り書き続けようとしたそうです。
「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚治虫さんの最後の言葉でした。

手塚治虫さんが入院中にもかかわらず、連載を続けていた「グリンゴ」、「ルードウィヒ・B」、「ネオ・ファウスト」は作品が未完のまま遺されました。

手塚治虫さんは自身が胃癌であることは伝えられていなかったが、入院中に連載していた「ネオ・ファウスト」では主要人物の坂根第造が胃癌にかかり死亡するエピソードがある。
板根第造本人には医者や周りが気づかい胃潰瘍と伝えらるが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。
手塚治虫さんの状況と酷似しているため、手塚治虫さんは胃癌であることを気づいていたのかもしれません。

手塚治虫さんの葬儀

手塚治虫さんの通夜は1989年2月11日、東久留米市の自宅で執り行われ
そして葬儀は1989年3月2日に東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬として執り行われました。
葬儀には手塚治虫作品のパネルがたくさん飾られ、ファンの方々が1万人もの押し寄せ、その列は夕方まで続きました。

また参列者には会葬礼状とともにアトム・ジャングル大帝レオ・リボンの騎士サファイアのイラストが印刷されたハンカチが配られました。

弔問を読まれたのは、漫画家の加藤芳郎さんで以下の言葉を捧げています。
「手塚くんは、十人並みの仕事を急いでやり、前のめりになってあの空へ翔んでいってしまいました。
奥さん、これまで、今夜のような時間はなかったのです。
どうか手塚くんを、ゆっくり休ませてあげてください」

また漫画家だけではなく、アーティストや作家、学者など、各分野分から追悼の言葉を寄せられました。

手塚治虫さんは曹洞宗で戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。お墓は總禅寺(豊島区巣鴨5-32-2)にあり、墓石の隣に鉄腕アトムやレオが描かれている石碑が立っています。いまでもファンの方が時よりお参りにこられるそうです。

手塚治虫さんの葬儀のまとめ

700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した世界マンガ史の神様 手塚治虫さん。
漫画界やアニメ界に残した功績は大きく、「MANGA」や「ANIME」が世界中から愛されるようになったのは手塚治虫さんの功績があったからこそでした。

電話をかける(無料) 資料請求