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田山花袋の葬儀 ~小説家のお葬式~

田山花袋は、小説「蒲団」や「田舎教師」で島崎藤村とともに自然主義文学の支柱を作り、その方向性を決定づけた明治時代の小説家です。故郷の群馬県の歴史や自然、人物で札が作られる郷土かるた「上毛かるた」では「誇る文豪 田山花袋」と「ほ」の札が割り当てられており、同県の館林市には記念文学館が建ちます。
今回は群馬県が誇る文豪、田山花袋の葬儀をご紹介します。

【目次】
1. 田山花袋はどんな人?
2. 田山花袋の死因と葬儀内容とは
3. 田山花袋の葬儀まとめ

田山花袋はどんな人?

田山花袋
田山花袋は当時の栃木県邑楽郡館林町、現在は群馬県の館林市で1872年1月22日に生まれました。
5歳の時に西南戦争で父親が命を落とし、貧困のため9歳から丁稚奉公をすることとなりますが2年ほどで帰郷して、12歳の年から後に6歳年上の兄が塾頭を務める漢学塾で漢文詩を学び始めます。この時点から田山花袋は漢文詩を雑誌に投稿するなどして文学に目覚めていったようです。

兄とともに上京した田山花袋は、尾崎紅葉の門下生となり江見水蔭の師事を受けます。1891年に処女作「瓜畑」を発表し、翌年から花袋の号を名のるようになりました。田山花袋が自然主義文学の同志である国木田独歩や島崎藤村と知り合ったのもこの頃です。
結婚後、知人の紹介で博文館に勤め校正の職を得た田山花袋は、「重右衛門の最後」で作家としての実力を認められるようになります。なお博文館では後に、「日本名勝地誌」の執筆に参加し、改めて田山花袋編として発刊されることとなった「新撰名勝地誌」の監修も行いました。

日露戦争の開戦にともない第二軍の従軍記者をつとめた田山花袋は、森鴎外の熱心なファンだったため、初対面にも関わらず同軍の軍医部長だった森鴎外の元を訪問しました。後日、森鴎外のファンだと告白する文章も書いた田山花袋は、体調不良が原因で帰郷するまでのあいだ、頻繁に森鴎外の元に通ったそうです。

田山花袋は温泉、あるいは日本全国の温泉巡りが趣味だったようで温泉に関する本も多数書かれています。その影響もあったのか、「南船北馬」や「山行水行」などの紀行文も秀逸な作品だと評価されているようです。

田山花袋の死因と葬儀内容とは

田山花袋は喉頭がんのため1930年の5月13日、東京府豊多摩郡代々幡町(現在の東京都渋谷区代々木)の自宅で逝去されました。1928年の末には脳溢血のため入院をされており、それから間を置かず58歳でこの世を去られています。

葬儀は16日に行われました。当時の風習と、田山花袋が文壇の中で重要な地位を占める人物だったことから葬儀委員が組まれ、島崎藤村や徳田秋声、柳田國男などが接待係の項に名を連ねています。
また当時の初七日は実際の七日後に再度集まっており、その折に文壇の仲間の方々による田山花袋の全集出版の相談などが行われたそうです。

田山花袋の墓地は多摩霊園に存在しますが、故人の遺志により土葬されたといわれています。一般的な墓石とは趣が異なり、島崎藤村が「田山花袋墓」と文字を入れた墓石は自然な石の形を残しています。
また、田山花袋が最後の時を過ごした自宅があった渋谷区代々木には、終焉の碑が建っています。

3. 田山花袋の葬儀まとめ

田山花袋
衝撃的な結末から特に最後の数行に注目の集まる田山花袋の代表作「蒲団」は、主人公の男性の思いの丈を飾らず、ありのままに書いた描写が全文の内に散見される自然主義文学の境地に立った見事な私小説作品と言えます。自己に正直で赤裸々な表現という田山花袋の持ち味は、現代の小説家の方たちにも受け継がれて人々を楽しませる小説を今後も生み出し続けることでしょう。

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